前回に引き続き、東日本大震災で大きな被害があった、三陸の美しい町、
岩手県大槌町に訪問した際の出来事をお伝えしております。
東日本大震災で被災した当時の記憶。現地高校生からの話
本当にあったこと・・・
絶対に忘れてはいけないこと・・・
伝えなくてはならないこと・・・
彼らが言っていたことはどれもが本当の話でした。
本当の話。
本当の気持ち。
彼らにしか解らなかったこと
そんな気持ちを少しでもわかりあえたこと。
わかりあえた上で笑顔でまた会おうと言っていた。
多くの方々に見て頂きたいです。
目次
思い出の黒板
この黒板ね!
中学校が被災して、取り壊される前に校舎に入ったときの自分の教室の黒板!
誰が書いたか分からない!
さよならすることもなく、
このクラスと別れちゃったから(転校しちゃったり!)集まって、
さようならが言いたい
この場所の惨劇
この旧役場では地震があった時に町長さんをはじめ何名かの皆さんが直ぐに地震対策会議をしていました。
また、避難の放送をしていた方もおりました。
2階の高さまで津波が来て、そのまま町長さんたちも津波に飲み込まれてしまいました。
2階で働いていた方は、2階の天井を突き破りなんとか息をしていたようです。
避難の放送をしていた方は、そのまま津波に飲み込まれてしまいました。
みなさんがいる今、この場所は
”海の底”
だったのです。
びっしりと民家が立ち並び商店もある町だったのです。
今の姿からは想像もできないと思います。
私の妻は、ちょうどあの山の高台に避難しておりました。
何かあったらそこに避難するように約束をしておりました。
でもその時は安否はわかりませんでした。
地震があり、火災が起き、津波によってその火災は山に燃え移り、
3日間ほど火は消えませんでした。
高台の方々はこのまま火が山を覆い、焼け死ぬ覚悟もしておりました。
おばあちゃんの姿
その日は胃腸炎?になっていて、また卒業式の前日だったので家にいました。
地震の後、家を出ると近所のおばあちゃんが、一緒に逃げようと言ってくれました。
それで気持ちが落ち着きました。
私はお母さんと会えました。
お母さんと避難することになったので、おばあちゃんと
「じゃあ別々に避難しましょう」
と言って別れました。
お母さんは役場近くの銀行で働いていて、
まだやることがあったので、一度銀行に行きました。
お母さんの仕事が終わり、銀行の他の人たちと、
“じゃあ避難しよう”
と、最初は歩いていました。
その銀行には内陸部から来て、あまり津波のことを分かっていなかった人が少なくなかったそうです。
途中道端に、手押し車に乗ったおばあちゃんがいました。
「一緒に避難しよう」
と私が言うと、おばあちゃんは
「大丈夫だから先に行って」
と言いました。
「じゃあ先に行くね」と言っておばあちゃんと別れました。
歩いて少したったとき、私は後ろを見ていました。
海の方から砂ぼこりがたっているのが見えました。
普通ではない雰囲気で、なにかすごく良くないように感じました。
みんなで走り出し、私は一番後ろを走っていました。
途中でまた振り返ると遠くへ避難しようとする人たちがたくさん車に乗って、渋滞を起こしていました。
すると横を消防車が通り過ぎました。
運転席を見ると乗っていた人が、何を言っているか分からなかったけど、
何かを必死で叫んでいるように見えました。
その消防車は海の方へ走って砂ぼこりの中に消えて行きました。
またずっと走っていきました。
もう一度後ろを振り返ると、砂ぼこりが目の前に迫ってきていました。
前まで渋滞していた車とかが見えていたのに、もうなにも見えなくなりました。
高台の方へ全力で走りました。
高台の頂上に行く途中の坂道でもう一度振り返ると、水が足下のぎりぎりで止まっていました。
なんとか私は逃げることができました。
私が道の途中で会ったおばあちゃんや消防の人はまだ見つかってないそうです。
今も全力で走ると、逃げていた時を思い出して苦しくなります。
私は「あそこで助けてあげられたらなにか変わっていたか」、
と今でも考えています。
つづきはこちらからです。
岩手県大槌町。深い悲しみの底から・・・前を向く力!!
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