3.11と聞いて思い出すことはなんでしょうか?
僕はあの日に学校で部活の指導をやっていました。
この地震が普通ではないことを感じたのは揺れの数秒後でした。
スポンサーリンク
目次
東日本大震災を忘れない
1階にいた僕は急いで4階まで駆け上がり、楽器を大切に持ちながら机の下に隠れている生徒を見て
全員無事で安心していました。
東京での地震の揺れも普通ではないと感じた数分後、
震源が東北であることを知り、
その後、ライブでの現地映像がひっきりなしに放送されていたことが忘れられないです。
僕の学校の生徒も当然帰れなくて、学校に避難しておりました。
吹奏楽部員の一人の女子生徒がそのテレビ放送を見て、泣き崩れてパニックになっていました。
親戚のおじいちゃんが住んでいる町がそこに映されており、津波に飲み込まれていたのです。
そんな思い出が僕の3.11です。
岩手県大槌町での思い出
その後、
ある人と知り合い、
震災の4年後、2015年3月に僕の学校の吹奏楽部員たちを連れて
岩手県に行きました。
僕たちが行ったのは、海沿いのとても美しい町で、
”ひょっこりひょうたん島”のモデルにもなった島がある
岩手県大槌町でした。
この映像見たことはありませんか?
この町の吹奏楽部の高校生達との交流会をさせたくて、できれば一緒にコンサートもしたくて。
東京で平和に過ごしている高校生達ですが、同じ年代の岩手県の高校生達の声を聞かせたい。
同じ日本の中でこんなにも違う人生を歩んでいる人々がいることを、知識として知っているのではなくて、
実際に会い、話をして、交流をして、お互い学びがあるようにしたい。
震災からは時間が経ったけど、何か自分たちが出来ることはないか・・・。
そんな想いがありました。
大槌町の景色
現地に行き、実際にバスで町に入ったときには、
あまりにも何もない場所。
ただただそういう風景にしか見えませんでした。
しかし、何か腑に落ちない。
元々町だったのでは?
町があった真ん中をバスで走っていることが解ったのは、
町役場を見た時でした。
何もない町に、壊れた町役場がありました。
現地で様々な段取りをしていただいた、ある方からいろんな貴重なお話をお聞きしました。
少しですがご紹介をします。
”この町役場は津波に飲み込まれました。地震直後、避難放送をかけていた町役場職員の方は津波に飲み込まれ、
町長さん始め町役場の方々は地震直後の対策会議を行い逃げ遅れ津波に飲み込まれました”
”私自身も家族とは離れ離れになり、妻や家族が無事だったと知ったのは数日後でした”
”地震により火災が起きました。津波から避難の為、山の上に逃げた人たちは、今度は町の方から上がる火災が山に燃え移り、焼け死ぬのではないか?という恐ろしい体験もしました。”
”この子達の故郷はガレキがあり、町は無い。これがこの子達の故郷なんです。
でも私たち大人にとって、この故郷は、海に潜り魚を捕り、友達と遊んだ美しい町なんです。
だから、今の子達に今の故郷をせめてよいものにしてあげたい。
この子たちはこれまでずっと震災当時の事を話せなかったけど、
やっと今、過去を話せるようになったんです。
だから音楽や吹奏楽を皆さんと一緒に楽しくさせてあげたい。
楽器も流されてしまったこの子たちに楽器を与え、
少しでも元気に子供らしく生きさせてあげたい。”
これが現実でした。
震災から4年。
今でも、仮設住宅で暮らし、町の盛り土など基礎工事の為にいつも土埃が舞うこの町です。
やっと、ガレキの撤去が終わっただけであり、町のほとんどがまだ何もない町です。
僕はこうやって見てきて体験したことを伝えることがとても大切なことであると思います。
大槌町高校生達の強い想い
高校生達は、今やっと震災当時中学生だった頃の事を話せるようになってきたと聞きました。
ある高校生は、”私たちが話して皆に伝えていかなければいけない!”と強く言っていました。
なぜ、そんな辛い思い出を話さなければならないのか?
”死んでしまった人達のことを忘れてはいけない。
私は自分のおじいちゃんやおばあちゃん、友達を失った。
みんな大切な人。だから忘れたくない。
きっと忘れないことが死んでいった人たちも喜んでくれると思うから”
そんな話をしっかりと明るく教えてくれたことが心に突き刺さった。
この町の来てよかった。
この子達に会えてよかった。
もう少し、このブログでこの子達からの当時の話を紹介させて下さい。
ありがとうございます。
おすすめ関連記事(一部広告も含みます。)
コメント
[…] 下の記事をご覧ください。 (相当ヤバイ記事です。号泣レベル!) 音楽教師が東日本大震災被災地で課外授業した話 これは今、僕と一緒に学んでいる仲間のブログです。 彼の職業 […]